正によき時代    津久井登雄

 健友創立40周年おめでとうございます。なにかとお世話

になり、心から感謝申し上げます。昭和594月に着任し、

最初の仕事は、向原区民センターの開所式だった。その後

地元の議員や関係職員が、相次いで病気になった。その敷

地は、もと墓地だった事が判り、内々でお祓いをして事無き

を得たという一幕もあった。この頃、庁舎の改築が進み、現

行の漢字オンラインシステムが構築中だった。多くの困難が

あったが、なんとか完成し、庁舎改築祝賀会が無事始動した

このときは、本当に胸を撫で下ろした。

 また、10カ年間の長期計画を策定する

事になった。審査会を設置し、その答申

をもとに2年かけて策定した。それまで

批判的な発言をしていた女性の学識経

験者の委員が「区で
この様な立派な計画

ができるとは思わなかった」と、お褒めの言葉を頂いた。

正に職員の苦労が報われた瞬間だった。平成元年には、

板橋区とカナダバーリントン市とが姉妹都市提携をするこ

とになり、担当職員の調査・折衝や議会代表団等の視察の

結果実現した。

 同市で、まず祝賀会が行われたが、区長を代表とする訪

問団の一員として私も参加し、その上かの有名なナイアガラ

瀑布を幸運にも見学することができた。後日、区でも市長等

を招き祝賀会を行なったが、その翌年には総勢275名の青少

年による市のティーンツアー・バンドが来区、大山周辺を華

かに演奏行動した。因みに、庁舎前の時計台は市からの贈

物で、20世紀と21世紀の変り目に、その鐘を鳴らして祝った

事もあった。

 特別区制度については、昭和50年区長公選制が復活し、

その後逐次改革が行われたが、なお清掃事業の移管、財調制

度の改革等が残されていた。そんななか地方制度調査会が開

かれ、その小委員会に石塚助役が23区の代表として招かれた。

特別区協議会の事務局長と私も随行した。委員から幾つか厳し

い質問があったが、無難に応答し無事終える事ができた。

 また、この制度改革のPRについて、区広報紙紙面の組み替え

という無理難題を広報課に強いた事もあった。

 平成4年は、区制施行60周年に当たっていた。その記念事業の

一つに区史編さんがあった。当初2年で作るつもりで、民俗学の権

威であった桜井徳太郎氏に委嘱し、区史編さん委員会を設置した。

すると編さんには5年から10年かかることが判り、そこで急遽絵と写

真を中心とする「図説板橋区史」を作り、なんとか祝賀式に間に合わ

すことができた。私が関わったのはここまでで、その後通算9年かけ

て、本格的な区史が完成した。その労苦は、実に計り知れない。

 企画部の最後の仕事は、植村記念財団の設立であった。植村直己

さんは、すでに亡くなられ国民栄誉賞を授与されていたが、その業績

とお人柄を周知しまた区のPRにも一役買って頂こうと、財団の設立と

植村記念館建設を計画した。

 公子夫人のご協力で遺品のご提供や、直己さんの出身地や北海道

のゆかりの方々の多大のご支援を頂いた。難航した都の許可も見通し

がつき、退職ぎりぎりで財団設立の祝賀会を開くことができた。

 これ以前にも、直己さんが初めて本格的な登山を試みた白馬岳へ

企画課が区民登山を計画・実施した。このことも実に想い出深い。こ

のほか、8年間に7回の予算編成があり、予算査定や大部の資料作成

等に、残業に次ぐ残業で職員は大変なご苦労だった。

 また、板橋駅隣接の旧国鉄用地の買収、浮間舟渡駅の命名などの仕

事も忘れられない。

 さらに、庶務や区民相談の職員にも大変お世話になった。

 定年後、監査の仕事に携わったが、5件の住民監査請求の裁定や行

政監査の強化で難題が重なり、職員は心労が多かった。

 こうした数々の仕事は、すべて職員の高い意欲と労苦の成果で、正に

汗の結晶だった。

 この間、私は職員任せでのほほんと過ごし、反面妙なところで厳しく、

また麻雀やカラオケに誘ったりと、碌な上司でなかった。

 でも、皆と一緒に、キャンプや旅行に行ったり、打ち上げなどの飲み

会に参加したりと、本当に楽しい日々に恵まれた。

 振り返れば、正にいい時代だったと、今つくづくと思っている。

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